なぜ、サッカーを「感覚だけ」でプレーすることがいけないのか
ある人はいいます。
「子どもが楽しいと感じることを大切にすることが大事なことだ。」
ある人は言います。
「サッカーは遊び。正解なんてない。好きにやらせればいい」
また、ある人は言います。
「子どもはボールを触るのが好き。だから、ドリブルさせるのは大事なことだ。団子サッカーは悪くない」
一理ありますし、すべて正解だ、と、僕も思います。
ですが、子供たちが、勝手に、感覚でプレーする、それだけではいけない理由があります。
それはなぜか。
サッカーというスポーツが研究されてきたことによって、よりサッカーの楽しみ方が多様化してきているから
だと僕は思います。
子供たちの、感覚だけに、頼ってサッカーをしていくことは、ここまで、先人たちのもたらしてくれた、サッカーの楽しみの一部分を、享受することなく、偏った楽しみ方しかできなくなる、可能性をはらんでいます。
ボールを蹴っ飛ばすのが、ちょー楽しい!!
そんな人もいますね。
ボールを自分でずっと触ってたい!
そんな人もいる。
ボールを持ってる人に向かって、ガチーンと身体をぶつけ合うのが楽しい!
そんな人もいますね。
そのどの楽しみも、否定されるべきではありませんね。
これらの楽しみ方は、おそらくサッカーの歴史の初期にも存在していたものではないかとおもいます。
ですが、先人たちの努力により、サッカーの楽しみは、年々広がってきているのです。
そういった発展してきた、多様化してきた楽しみ方、というものは、
サッカーコーチ
という立場の人間が、体系的に、教えていく必要があります。
決して、コーチングと、ティーチングの話をしているのではありません。
「教える」というと、日本の学校の授業みたいなものを思い描いてしまうかもしれませんが、違う形で、選手たちに、サッカーを「楽しみながら」「教えていく」「学んでいくように導いていく」ことが可能です。
サッカーは、遊び
その通り。
遊び=楽しい
その通り。
サッカーという、11人×11人、105×65メートルという、ピッチの中で、誰が、どこにいて、なにをするのか、ということのプレーの選択肢の「可能性」を、ひとつひとつ例えば考えた時に、とんでもない数の選択肢が、乗数的に掛け合わされて、一つのゲームが展開されていきます。
もはや、同じ状況は再現されることは皆無だし、同じ判断がなされる場面もほとんどありません。
これがいわゆる、
「サッカーは、カオスである」
と言われる理由です。
だからこそ、多種多様なサッカーのスタイルが存在していて、多種多様な楽しみ方が存在しているのでは、ないでしょうか。
そして、今でさえ、当たり前に語られる、フォーメーション、システム、
などは、
本当にサッカーというスポーツが始まったときには、存在していなかったことでしょう。
そこから、長い年月を経て、少しずつ、現代のサッカーの形へと、ルールの改正とともに、戦術的にも発展してきたものだと思います。
なぜでしょうか。
その方が、楽しいから、だと思います。
ルールの改正は、もちろん、安全性やその他の特性上の都合によっての改正もあるかと思いますが、多くの場合、どれだけ、その競技が、「面白くなるか?」
という方向で動いている経緯があります。
オフサイド、キーパーのボールを持っている時間、バックパスの禁止、フリーキック時の離れる距離、ファウルの種類、基準…そもそも、手を使わない方向性になってこと自体、おそらく、「使わない方が面白い」という発想の集団が推し進めた形ではないかと思います。
手を使った方が面白い派は、ラグビーやアメフトへと変化していったわけですね。
そして、それらのルールが定まってきた、その中で、人々が自分たちで出来る工夫を凝らすことで、戦術的な発展が行われて、それに伴い、フィジカル面でも技術面でも、発展してきている、ということではないかと、思います。
個人的な楽しみから、いかにして、11人全員で協力して、「チームとして」サッカーを楽しむか、という風に、より高度に複雑に楽しみ方が変化してきているのだと思います。
そして、その楽しみは、子供たちの感覚にだけ、頼ってしまっては、楽しめるようになるのは困難です、
「子供達が、よりサッカーを楽しむために」
子供たちが自分たちの
「感覚」
だけで、学んでいくような環境にしてしまうと、例えば小学生、中学生になったときに、子供達が楽しめる、サッカーの楽しみは、限られたものになってしまうか、特別に才能、センスを持った子供達だけか、楽しめる環境になっていってしまうのではないかと思います。
サッカーを、よりたくさんの人が、楽しめる環境を作ること。
それが、僕は今の所、日本のサッカーにとって一番必要なことなのではないか、と考えています。